令和6年度の司法試験の合格発表があり、今年は17歳で合格した高校生がいます。彼はギフテッドではないかと話題になっていますね。
私のブログの中でも「ギフテッド」を過去に取り上げていますし、また個人的に取り組みたい政策の一つとして「ギフテッド」の教育をあげています。
現在の日本の教育は、上司や組織の命令に従って、深く考えずに言われたとおりに実行する優秀な労働者を生産するのに都合の良い制度です。ですが自分で考え、自ら行動を起こしたり、あるいはゼロから何か形あるものを創造したりできる人物を育てる教育にはなっていません。
基本的に日本の教育は、教育指導要領という政府が決めたルールにのっとり授業をしなくてはならず、近年はこの締め付けがどんどん厳しくなっています。あまりにもガチガチに固めすぎていて、授業を受ける子供たちはさぞかし学校の授業がつまらないのではないかと思います。そのためか近年不登校の子供が激増しています。
不登校の小中学生 過去最多34万人余に 11年連続で増加 文科省
徹底的に管理しようという政府の方針が教育現場をより息苦しくしているのではないでしょうか。生徒も、その親も、そして教師も、かつてないほどに疲弊しています。
そして教育現場からは、人権意識とか、ジェンダーとか生徒が自ら考えなくてはならないような高次な授業は排除されています。前回のブログで述べた女性差別撤廃条約に伴う国連のヒアリングでは、何度も包括的性教育を実施するように勧告されていますが、日本政府はのらりくらりとかわしています。
性教育の課題は? 話題の「包括的性教育」とは? <用語解説>
今回17歳で司法試験に合格した高校生は、筑波大学付属駒場高校の生徒さんとのこと。筑波大学付属駒場高校は有名な進学校の一つですね。こうした進学校は勉強ばかりしている子が集まると思いきや、実はそうではない生徒も沢山います。私もそれなりの進学校出身ですが、本当に優秀な生徒はそんなに勉強しなくても成績が良いのです。しかもスポーツもできて、芸術にも明るく、性格もよいなんていう生徒もたくさんいます。高校に入学した段階で高校の数学をすべて終えている生徒も多いです。だから司法試験に合格する子がいても、個人的には全く驚きません。司法の分野に興味があれば、高校生の段階で司法試験に合格できる子はまだまだいるのではないでしょうか?
私は北海道のそこそこの進学校出身ですが、進学校に入ってよかったと思うことは、早い段階で自分はそんなに優秀ではないと理解できたことです。だから自分はそれなりに努力しなくてはいけないと悟りましたし、凡人である自分の強みはいったい何だろうと常に考えるようになりました。もし進学校ではなく、比較的楽をして良い成績を維持できるような学校に行っていたら、今の自分はなかったと思います。
私が在籍していた頃の母校は、学習指導要領で決められた最低の授業時間しか授業がなく、3年生になると午後はほとんど授業がありませんでした。勉強は個々の生徒が自主性を持って取り組めるようにという配慮から学校が極力授業時間を減らしていたのです。私は勉強で周りについていくのが大変だった一方で、勉強だけではなく自分が何者かを考える時間をくれた母校に今では大変感謝しています。
私の場合、大人になって創薬研究という仕事にかかわるようになりましたが、途中で研究を自ら行うにはモチベーションも能力も低すぎると悟りました。そのため途中から研究をサポートする側になり、現在に至ります。ただ一緒に仕事をしていた会社の同僚たちは、米国の有名どころの研究所や製薬企業で働いていた人たちで、しかもそれなりの実績もある人たちでしたので、頭の作りが異次元に違う人も多かったのです。
私はこれまで常に超絶優秀な同僚に囲まれて仕事をしてきたので、仕事環境において残念ながら自分が優秀だと感じる場面はほとんどありませんでした。そして常に、自分にできて彼らにできないことは何だろう、自分の強みはなんだろうと考えて仕事をするようになりました。これまで外資系企業や、海外企業で働いてきたこともあり、日本企業のような隠れ女性差別にあうこともなく、仕事ではものすごく恵まれ、能力を実力以上に評価されてきたのではないかと思っています。
その原点になったのは、進学校でたくさんの優秀な同級生を知り、自分の実力を客観的に見ることができたことだと思います。持って生まれた能力はそれぞれ違います。生まれた環境も違います。貧乏だから、頭が悪いから、親の教育レベルが低いから、容姿に恵まれないからと文句を言ってもなんの解決にもなりません。世の中は元々不公平なものなのです。全くの平等なんてありえません。その中で、自分のあまりない能力を生かせる道、あるいは没頭できる道を探すのが人生なのではと感じます。
現在の日本の教育は、優秀な生徒の足を引っ張り、無理やり低いレベルの平等を達成しようとしているような印象があります。そうやって低レベルの競争をさせることが、支配者側に有利に働くからです。
日本企業もそうですが、お互い監視し合って、少しでも逸脱する人がいたら叩くような印象があります。日本企業から最近イノベーションが起こりにくいのは、いろいろな規則でがんじがらめになって、企業活動の自由度が減ったからではないでしょうか?これが日本式社会主義の悪い面だと思います。なんとしても自分は誰にも劣っていないと思いたい、他人に負けたくない、世の中平等であるべきだ・・・。これが親だったら、自分の子供は他人の子供に劣っていると思いたくない。そのように歪んだ意識で自分や子供を評価することで、逆に自分の本当の実力や適性が見えなくなり、親の場合は子供の実力に不釣り合いな勉強や職業を押し付けることになると感じます。
今時の日本の大企業では何もしない人が出世します。それは日本企業の評価が減点方式で、新しいことにチャレンジして失敗した人は、何もしない人より低い評価になるからです。だから日本企業では優秀ではない、怠け者が出世します。そしてそのような人たちは自分の実力がないのを理解しているので、自分より実力のある人を極力排除するようになります。何もアイディアがないので、結局外資のコンサルに企業買収などを丸投げして大損して益々経営不振に陥る・・・。日本の大企業の最近のトレンドですよね。
でも元々人は違うのだというところからスタートすれば、逸脱は当たり前です。先に進む人がいても、うらやましがる必要も、足を引っ張る必要もありません。他の人より遅れても問題はないのです。まあ、これがお給料とリンクすると、やはり多少のやっかみはあるのかとは思いますが(ちなみに私は日本式の年功序列を支持していません)、学校教育ではもっと自由度を上げて差を明らかにすることで個人が自分の能力の限界を知り、自分に合った道を小さいころから模索できるようにすべきと感じています。ですから優秀な子はどんどん先に進んで早く学校を卒業し、社会人になれるようにする。そして早く社会に出てつまずいたら適当な時期にまた学校に戻ったりできるようにする。小学校から授業を単位制にして、単位が取れたら先に進む、取れなければ何年でも同じ学年を繰返す・・・というような、もっと個人単位のドライな教育方針に変えるべきと思っています。
現在の学校は未だに一人の先生が、クラス全員に同じ授業をするスタイルですが、これも古いと思います。今は塾も個別指導が流行りのようですし、一人一人の能力にあった教材を教師が生徒にアドバイスすることを教師の仕事とする、で良いのではないでしょうか?授業自体はもっと既成の教材を利用しても良いと感じます。教師は子供の成績には一切関与しない、親の変なクレームには一切関知しない。学校は学校行事など楽しいことを一緒に楽しむ場所になって欲しいと思っています。世の中が変わっているのに、文科省の学習指導要領は基本明治時代の昔と同じ授業スタイルを前提としているのが私はおかしいと感じます。
先週、京都で創薬研究にかかわる学会があり、参加していました。今回は中高生が何組か研究についてポスター発表をしていました。研究の内容もプレゼンも大変すばらしく、ポスターを取り囲んで発表を聞いていた研究者が、「おれ、やばいな」と思わずつぶやくほどでした。STEM分野の研究については、一部の化学実験など危険なものを除けば、中高生でも大人と同等の研究をすることが可能だと私は思います。むしろSTEM分野は、年齢が若いほど有利ではないかと思っています。先に進みたい、もっと研究したいという生徒には、大学生に交じってどんどん研究してもらいたいと思います。周りにいる年上の学生も、若い学生がいることで大いに刺激されると感じます。
一方で法学など社会科学分野では、社会人のリカレント教育が現役学生にもよい刺激になると感じます。私は30歳を過ぎてアメリカのビジネススクールに留学しましたが、本当にいろいろな経歴、国籍、年齢の学生がいました。講義でそれぞれの学生が自分の経験や業界ネタを共有し合うことで、大変有意義な授業ができました。年を取ると丸暗記のようなことは苦手になりますが、理解力は逆に若いころより増すので、社会人が年を取って大学に戻っても、授業についていくのが大変ということはあまりありませんし、一度社会に出てそれなりの経験を積んだ年配者が、大学に戻って学生と一緒の授業を受けると、若い現役学生にとっても大いに刺激となると思います。
変化のタイミングはすぐそこまで来ていると感じています。