「大学5年一貫教育制度」は本当に必要か?

最近、文部科学省が打ち出した「大学・大学院5年一貫教育制度」について、私なりの視点で考えてみたいと思います。正式名称は「学士・修士5年一貫教育プログラム」。一見すると合理的で前向きな制度に見えますが、果たして本当に学生や社会のためになるのでしょうか?

制度の目的とは?

この制度の目的は大きく2つあります。

  • 文系分野での大学院進学率を高め、修士課程修了を“当たり前”にすること。
  • 優秀な学生が「4年+2年=6年」ではなく「5年」で大学・大学院を修了できるようにすること。


でも、文系学生が大学院に進学しない理由は明確です。進学しても報われないから。日本の雇用慣行では、文系の専門性が企業で活かされることは少なく、修士号を取っても給与やキャリアに直結しない。むしろ就職が遅れるリスクを取るメリットが見えにくいのです。

欧米やアジアの一部では、修士号を持つことで給与が学士の1.5〜2倍になることもあります。だから自然と進学率が高くなる。つまり、制度で無理やり進学させるのではなく、企業の評価制度や給与体系を変えることが先決なのです。

過去の政策から学ばない日本

この話を聞いて、かつての「ポスドク1万人計画」を思い出した方もいるかもしれません。博士号取得者を増やす政策でしたが、企業はポストを用意せず、結果として多くの若者が不安定な立場に追いやられました。今回の5年一貫教育も、企業側の意識改革がないまま進めれば、同じ轍を踏むことになるでしょう。

留学生誘致というもう一つの狙い

つまり、この制度は「優秀な外国人を呼び込む」ための仕組みでもあるのです。もちろん、国際化は大切です。しかし、日本人学生が進学をためらう構造を放置したまま、外国人だけをターゲットにするのは、本末転倒ではないでしょうか。現在でも日本の私立大学の大学院は留学生であふれています。

ちなみに私が昔留学していたカナダの大学院も似たような構造をしていました。カナダでは優秀な一部の学生は米国の大学院に進学し、地元の大学院に進むのはごくわずかです。当時、カナダ生まれのカナダ人は少数派ゆえに就職先には全く困らず、米国進学組を除けば、大学院に進学する動機がなかったと言えます。ですからカナダの大学院もほぼ外国人留学生のみという状況でした。おそらく同じ英語圏のオーストラリアも似たような状況でしょう。

最もカナダの場合は日本と違い、外国人留学生は永住権保持者以外、カナダ人の倍の授業料を払っていました。外国人留学生は大学の資金源でもあったわけです。私はカナダでは、私は大学院の経済学専攻でしたが、同級生50名ほどのうちカナダ人は2名のみ、残りはすべて外国人留学生で、その半分くらいが中国人留学生でした。ある授業でふと周りを見渡すと、教授も中国人なら、一緒に授業を受けている同級生もすべて中国人で、私だけ日本人なので、教授は英語で授業していたということがありました。日本でも今後似たような状況になるのではないでしょうか?

優秀な学生には、早く社会に出る道を

優秀な学生が5年で修了できるようにするという目的も、そもそも大学の修業年限を撤廃すれば済む話。大学は単位制なのだから、必要な単位を取得すれば卒業できるようにすればいいのです。わざわざ5年コースを新設する必要はありません。

文系なら理系のように実習も少なく、単位取得も早いです。私の高校の文系の同級生たちは大学時代、2〜3年で単位を取り終え、4年次はバイト三昧や世界一周旅行をしていました。授業を受けないのに授業料を払い続けなければいけないのはおかしいですよね。ちなみに日本以外の国では、余裕がある学生は1つ目の専攻を履修しながら同時進行で2つ目の専攻を履修することもできますが、日本はそれもできない。4年より早く卒業できないのは、制度が足かせになっているからです。

ちなみに私は大学生のころ、卒業に必要な単位の倍以上取っていました。私は語学が好きだったので、専攻の薬学とは関係のない、いろんな言語の授業を履修していました。私大と違い、国公立大学はたくさん履修しても追加費用はかかりませんので、卒業に必要はないけれど興味のある科目をたくさん履修する学生もいるわけです。ですから文系であれば、2専攻同時履修や、4年より早く卒業できる学生はきっと多いと思います。

弁護士や裁判官になった知人から、大学時代は司法試験を受けるため、授業にほとんど出ずに司法試験の勉強ばかりしていたという話をよく聞きます。授業にあまりでなくても、単位が取れる程度の内容の授業ということでしょう。(ご本人が優秀だからかもですが)でしたら、そんなに簡単に取れる単位はさっさと取ってしまって卒業し、司法試験の勉強に専念した方がよいのではないかと思います。

大学を1年でも2年でも早く卒業できるオプションがあるということは、低所得の家庭にとっては朗報です。私は小さいころ貧しい家庭で育ったので、制度が許せばきっと頑張って勉強して、できるだけ早く卒業することを目指したと思います。政策を決定する側は、裕福な家庭に生まれて小中学校から私立という人も多く、早く卒業できることが経済的なメリットであることに気が付かない人も多いのかもしれません。

優秀な学生には早く社会に出てもらい、税金や社会保障を長く支えてもらう方が、少子化の日本にとっては理にかなっているはずです。日本の教育システムはなぜいつも優秀な人材の足を引っ張る政策に傾いていくのか、個人的に本当に謎です。

外資就職への批判と日本企業の課題

最近、参政党の神谷氏が「国立大学卒業生が外資系企業に就職するのはけしからん」と発言したというニュースがありました。私は全く賛同できません。外資系企業も法人税を払っていますし、給与が高い分、社会保障費も多く納めています。

問題は、日本企業が新卒に対して能力に見合った仕事も給与も与えないこと。優秀な学生が腐ってしまう環境にあることです。つまり今の日本企業は「ぬるい」ということです。だから業績も上がらないというわけです。

外資系企業は成果主義です。成果を出せば高給が得られる。年齢も関係ない。その代わり厳しい労働環境ですが、それでも挑戦したい人が行くのです。若者が「もっと厳しい環境で成長したい」と外資を選ぶのは、むしろ前向きな選択です。

女性のキャリアと外資の選択

女性の視点から見ても、日本企業は依然として女性が報われにくい構造です。だから優秀な女子学生は外資を選びます。性別の壁がないからです。私自身も外資勤務が長いのですが、やはり女性として外資の方が働きやすいと感じます。また、日本企業では「男性にとって扱いやすい女性」が出世する傾向があると感じます。本当に優秀な女性ほど、足を引っ張られる構造があるのです。これは政治の世界でも同じではないかと、高市新総理を見て感じています。

結論:制度よりも社会の構造改革を

この制度は、日本人学生の進学率を高めるというより、外国人留学生を呼び込むための仕組みではないかと感じます。優秀な学生に早く卒業してほしいなら、修業年限を撤廃すればいいだけです。修業年限より早く卒業するかどうかは、それぞれの学生の能力や家庭の事情などで変更できることの方が重要です。学部からすぐに大学院に行く必要もなく、途中で一度社会に出て、勉強したくなったらまた戻るようなことがあってもよいと思います。

20年ほど前、薬学部の修業年限が4年から6年に変更になりました。表向きの事情は臨床薬学の知識を持つ薬剤師を養成するためでした。ですが6年生になっても薬剤師の待遇は全く変わらず、学生は2年間余計に長く大学にいなくてはならず、延長分の臨床薬学を生かせる就職先は相変わらず狭き門であり、私大においては高額な授業料を払うため奨学金の返済額が激増するという負の側面がありました。(過去のブログ、「薬学部の将来」を参照)

制度設計よりも、まずは受け皿となる企業の意識改革が必要です。需要のないところに放り出された学生はたまったものではありません。若者が国内外問わず、自分の力を最大限に発揮できる環境を整えること。それこそが、未来の日本を支える本当の教育政策だと、私は信じています。