映画『名無しの子』を観てー忘れられた歴史と日本語の壁

最近、映画をよく観るようになった私ですが、今回は竹内亮監督のドキュメンタリー映画『名無しの子』について書いてみたいと思います。

竹内亮監督は、中国では非常に高い知名度を誇るドキュメンタリー作家です。現地では彼の作品が広く知られており、多くの人々に支持されていますが、日本ではまだあまり知られていないかもしれません。そんな彼が手がけた『名無しの子』は、中国残留日本人孤児の1世、2世、3世を追った作品で、涙なしでは観られない内容でした。

若者が知らない「残留孤児」

映画の冒頭、日本の街角で若者たちに「残留孤児」という言葉を知っているかどうかを尋ねるシーンがあります。インタビューに答えた若者全員が「知らない」と答えていたのが非常に印象的でした。確かに、最近ではニュースでも「残留孤児」という言葉を耳にする機会は減っているように思いますし、学校教育でも取り上げられることは少ないのでしょう。

私自身は大学生の頃、札幌のある語学学校で中国語を学んでいました。その学校では、日本人向けの中国語クラスと、日本に帰国した中国残留日本人孤児の方々向けの日本語クラスが同時に開講されていました。私にとって「残留孤児」とは、隣の教室で一生懸命に日本語を学んでいた50代前後の方々の姿です。

中国残留日本人孤児とは

中国残留日本人孤児とは、かつて日本が占領していた中国東北部(旧満州国)に開拓団として渡った30万人以上の日本人のうち、終戦時に13歳未満で帰国できなかった人々のことを指します。

当時の満州には農民として渡った開拓団のほか、日本の軍隊である関東軍も駐留していました。しかし終戦を迎えると、関東軍は真っ先に撤退し、農民たちは取り残されてしまいました。逃げ遅れた人々の中には、老人や子供を抱えた女性が殺されたり、逃避行の途中で脱落したりするケースも多くあったそうです。子供たちは親を失い、孤児となり、中国人に売られたり、あるいは親切な中国人に引き取られたりと、さまざまな運命をたどることになります。

日本政府は1946年から1958年まで引き揚げ船を出して現地に残された日本人の団体引き揚げを実施しましたが、1959年に中国との国交が断絶されると、「未帰還者に関する特別措置法」が制定され、残留孤児の戸籍は「戦時死亡宣告」により抹消されました。この時点で帰国できなかった人々は、中国人として育ち、日本に帰ることは叶いませんでした。自分が日本人であることすら知らずに育った人も多かったことでしょう。

その後、日中国交正常化の機運が高まり、周恩来の計らいもあって、1981年3月から「残留孤児訪日調査団」が中国に派遣され、2116人が日本人と確認され、一部が日本に帰国しました。私が語学学校で見かけた方々は、まさにこのタイミングで帰国された方々だったのだと思います。当時はテレビでもこのニュースが頻繁に取り上げられ、何十年ぶりに肉親と再会する感動的な場面を目にした記憶があります。

日本語の壁と社会的孤立

映画の中で描かれる1世の方々は、すでに80歳を超えている方が多く、介護が必要な状況にある方も少なくありません。彼らは中年以降に日本に帰国したため、日本語の習得が非常に困難で、仕事も思うように得られず、生活保護や支援団体の援助を受けながら、社会から取り残されたような生活を送っているケースが多いのです。

日本語の壁は、外国人にとって非常に高いものです。日本語の発音は比較的易しいため、片言の日本語を話すことはできても、仕事で使えるレベルに達するには膨大な学習時間が必要です。読み書きに至っては、さらに高いハードルがあります。

私の知人にも日本語を話す外国人は多くいますが、中国人以外で日本語の読み書きが仕事で使えるレベルの人には、ほとんど出会ったことがありません。社会人になったばかりの頃、私の上司がドイツ人だったことがあります。彼は日本語も英語も非常に流暢で、難しい漢字も多く知っていましたが、新聞の簡単なコラムさえも理解するのは難しかったです。博士号を持ち、複数の言語に堪能で、日本語を毎日勉強している人でさえ、日本語の読み書きは非常に難しいのです。ですから、現在日本でその存在感を増している、短期の出稼ぎ目的で来日する外国人労働者に、完璧な日本語を求めるのはそもそも無理があるというわけです。

中年以降に来日した残留孤児1世の方々は、日本語の記憶がほとんどなく、自分の日本語の名前すら知らない人もいました。戦後の混乱と文化大革命の中で満足な教育を受けられず、小学校を卒業したかどうかという人たちが、中年を過ぎて外国語を一から学び、仕事で使えるようになるのは、ほとんど不可能だったと思います。

2世の苦悩と支援の輪

映画には、1世とともに来日した2世の姿も描かれています。日本語ができない1世のために、介護施設を立ち上げた女性が登場します。彼女は高校生で来日し、いじめに苦しみながらも日本語を習得し、支援活動に尽力しています。

2世の中には、彼女のように日本語と母語の中国語を使いこなし、1世の支援に携わる人もいます。一方で、日本語が思うように習得できず、社会に馴染めず、やくざな世界に足を踏み入れてしまった人もいるようです。

外国語で仕事をしたことがない人や、外国に住んだことがない人の中には、子供は外国で生活すれば自然と外国語をマスターできると思っている方も多いようです。ですが実際にはそう簡単なことではありません。学校の授業と家庭での会話だけでは、よほど言語能力に恵まれた子供でない限り、自然とバイリンガルになることはありません。家庭での徹底した親のサポートがなければ、二つ以上の言語を習得することはできません。

残留孤児1世の親は中国語しかわかりません。当人が日本語を全く理解することができないわけですから、子供の勉強の相手などできるわけがありません。当時は外国人の子弟が公立の学校に編入されるケースはまれで、2世のための日本語の補習などもなかったことでしょう。それでもクラスメートが親切に手助けしてくれればまだ救われたでしょうが、2世のほとんどが日本の学校でひどいいじめにあい、学校が苦痛だったとしています。親に相談することもできず、学校関係者の誰にも支援してもらえずという環境は、本当に苦しかったことと思います。この映画を見ていて、日本に帰国して一番つらい思いをしたのは、残留孤児2世の方だったのかも知れないと感じました。

3世に託す希望

映画には3世も登場します。彼らは日本生まれで、日本語の壁を感じることなく育ち、日本のコミュニティーの中で生活しています。普段は親や祖父母が背負ってきた中国と日本の歴史的な背景を意識することなく暮らしていますが、親や祖父母の苦労を知ることで、自分なりに両国の架け橋になろうとしているように見えました。

映画の中で3世が、親が育った中国東北部の都市を訪れるシーンがあり、彼らが何かを感じ取ったように見えたのが印象的でした。それがこの映画の救いであり、希望なのかもしれません。

あまり詳しく書きすぎるとネタバレになってしまうので、この辺で。もしお時間がある方は、ぜひ劇場に足を運んでみてください。

名無しの子公式ホームページ