トランプ関税が製薬業界に与える影響

2024年後半から、製薬業界は静かに、しかし確実に地殻変動を始めています。その震源地は、米国の「BioSecure Act」と呼ばれる法案です。そして、2025年に入り、トランプ前大統領による対中関税強化が、業界全体に衝撃を与えました。これは単なる貿易政策ではなく、医薬品の研究・製造・供給体制そのものを揺るがす構造的な変化です。

BioSecure Act:CROの再編と安全保障の狭間で

米国議会で審議されたBioSecure Actは、中国企業による医薬研究への関与を制限する法案です。特に名指しされたのが、中国最大手のCRO(医薬品開発受託機関)であるWuxi AppTec。米国の製薬企業、大学、国立研究機関の多くが同社に研究開発を外注してきました。
かつては社内完結が常識だった創薬プロジェクトも、今では外注が主流です。Wuxiのような高品質なCROは不可欠な存在でしたが、米国政府は「米国人の遺伝子情報が中国共産党に渡る懸念」を背景に、研究助成金の制限などで圧力を強めています。

外注化のリスクと再編:外注先はインド、その他の国へ

この法案により、米国企業は中国以外のCROへの分散を余儀なくされました。インドや東欧が代替先として注目されていますが、品質・納期・信頼性・価格の面で中国に匹敵する企業は少なく、再編には時間とコストがかかります。

製造の壁:中国依存と原料供給の現実

研究開発の外注は製造に比べればまた柔軟に対応可能です。製造はそうはいきません。中国は医薬品原料の世界的供給拠点であり、他国では製造不可能な原料も多数あります。インドもジェネリック原薬の加工拠点として知られていますが、原料は中国からの輸入が主流です。
原料の切り替えには、設備投資・人材育成・物流再構築が必要で、短期的な対応は困難です。しかも中国ほど安価かつ効率的に供給できる国はほとんどなく、原材料費の高騰は避けられません。
日本も例外ではなく、抗生物質の原料などはほぼ中国依存です。最近では明治製菓ファルマがペニシリン系抗菌薬の国内生産を再開するなど、有事に備えた動きも見られはじめました。

トランプ関税の衝撃:ジェネリック原薬の遮断

そんな中、トランプ氏が打ち出した対中関税強化。ジェネリック原薬や中間体に高率関税を課すという発表は、米国企業にとってまさに「寝耳に水」。中国企業は日本やインド経由での迂回輸出も模索しています。

インドは医薬品に関して関税除外の交渉を進めており、交渉力の高さが際立ちます。一方、日本は交渉の行方が不透明です。赤沢大臣が合意文書なしに巨額投資を約束したとの報道もあり、懸念が残ります。

米国薬価への影響:メディケアの限界

米国ではメディケアがジェネリック医薬品の最大購入者であり、価格交渉力も世界一。しかし、原材料費の高騰は価格に原薬価格に直結します。

トランプ氏は「薬価が高すぎる」として製薬企業に値下げを求めていますが、実際に高いのは薬価ではなく、処方や事務手続きのコストです。製薬企業が対応できる範囲には限界があります。

米国回帰:製造拠点の再構築

製薬企業は米国国内への製造拠点回帰を加速中。ボストンやケンブリッジでは研究拠点に加え、製造施設の整備が進んでいます。
Fujifilmの米国子会社がJ&Jの製造拠点を米国に建設するというニュースがありました。J&Jは今後10年間で20億ドルの投資を行うとしています。

日本の立ち位置:沈黙か、戦略的飛躍か

日本にも受託製造企業はありますが、海外営業力や交渉力が弱く、海外プロジェクトを日本に誘致することには苦戦しています。TSMCの熊本工場も、製造するのは汎用品であり、先端技術へのアクセスは限定的です。
また、補助金で整備された設備も稼働率が低ければ結局維持が困難になります。日本には建設はしたものの稼働せずに閑古鳥が鳴いている施設が多くあります。箱モノを作るだけではなく、稼働率や利益創出を助成の条件にすべきでしょう。官僚の審査には科学的評価だけでなく、ビジネス面での視点も不可欠です。

関税交渉に戻ると、もし日本が15%程度の関税で米国と合意できれば、円安の今、日本で受託製造を実施した医薬品を米国に輸出することが現実的な選択肢になります。しかし、現時点では政府の動きは見えてきません。

今後の展望:製薬業界の地政学リスクと再編


製薬業界は今、研究・製造の両面で地政学的な再編の真っ只中です。中国企業は米国に製造拠点を構え始めていますが、日本はまだ動きが鈍いままです。
この変化をどう捉え、どう動くかが、今後の競争力を左右します。製薬企業にとっては、地政学リスクを踏まえたサプライチェーンの再構築が急務です。

結語

トランプ関税は単なる貿易政策ではなく、製薬業界の構造そのものを揺るがすインパクトを持っています。日本企業がこの波にどう乗るか。今こそ、戦略的な判断と行動が求められています。