紫式部と母系社会

今年の大河ドラマは紫式部が主人公とのこと。内容のまとめや歴史的観点から考察を加えたYouTubeなどがたくさんあり、大変興味深く拝見しています。大河ドラマも、今回はオンデマンドで視聴しています。

私は学校の科目では歴史が一番好きで得意でした。現在でもプライベートで読む本は、自然科学ではなく、歴史か社会科学系のノンフィクション(小説は苦手)と決めています。その昔は考古学者になりたかったのですが、将来食べていけそうにないと早々にあきらめ、リケジョという現実路線に舵をきった私です。

紫式部の書いた源氏物語は、女性が書いた長編小説としては世界で最も古いものです。残念ながら世界的に見て、読み書きが普通にできる女性は、特権階級に属する女性ですら、近年まで世界にほとんどいなかったと言って良いでしょう。ですから現在のように、こんなにも多くの人が、自由に文章を読んだり書いたりできるというのは本当にすごいことです。

例えば中国人は本当に記録魔で、ありとあらゆることを文字として記録してきた人たちですが、女性の作家や詩人は、その長い歴史の中にほとんど存在しません。皇帝の妻たちでさえ、読み書きができないのが普通でした。一部のごく少数の読み書きができる野心家の女性が、皇帝の後ろ盾として政治の実権を握るようなことがあったため、逆に貴族階級でさえ、女性の読み書きは敬遠されていたようです。

西洋でも、読み書きができる女性は多くありませんでした。男性並みに読み書きができる女性は貴族階級か、よほどの変わり者か、家が大変裕福で、両親が溺愛した結果、子どもの望むまま書物を与えたようなケースにとどまるようです。ロシアでは、貴族階級ですら読み書きができない女性は普通で、ドイツから輿入れしてきた後のエカテリーナ二世は大変驚いたそうです。

日本においては、紫式部が活躍した平安時代も、彼女が日記の中で述べているように、男性のように漢学ができる女性は敬遠されていたようです。紫式部も漢字など読めないふりをしていたという記述があるくらいです。それでも、彼女のように漢学の素養のある女性は同時代に複数存在していました。その一人として有名なのが、学者を父に持つ清少納言です。そしてその清少納言を見出したパトロンである中宮定子もまた、学者の祖父を持ち、同じく漢学の素養のある母高階貴子に、幼少のころから兄伊周とともに、漢学を徹底的に叩き込まれていました。高階貴子は宮仕えを経て藤原の道隆の妻となったようですが、「大鏡」にも彼女の漢詩や和歌が、「男よりうまい」と書かれているほどの女性です。

ご存じのように、この時代の平安時代は文化的に絶頂期を迎えます。文化が栄える要因は、戦争がなく安定した世の中が続くことと、文化の担い手の財力にあると思います。この時代の特徴として、古代から続く婿入り婚の風習が、貴族社会にもまだ残っており、女性の権利が強かったことがあげられると思います。鎌倉時代は武士の世の中になり、徐々に女性の権利が弱体化していき、江戸時代に入ると儒教思想が入ってきて少なくとも支配階級では女性の権利が無きに等しくなるわけですが、この時代はまだアジア農耕民族的な母系社会が色濃く残っていました。

私は「自称」中国のミャオ族、あるいはラオスのモン族(呼び方が違うだけで同じ民族)の民族衣装研究家なので、衣装以外のこともある程度詳しいのですが、日本の平安時代の女性の社会的な立ち位置や当時の社会の慣習は、この山岳少数民族によく似ていると思います。

ミャオ族は母系社会であり、男性は女性の家に通い子供を作りますが、夫婦が一緒に育てることはせず、子どもは女性の親兄弟によって育てられます。財産権もすべて母から娘へと継承されます。男性は好きな女性に歌を送り、女性は男性の歌で品定めをし、男性を夜だけ迎え入れます。同時に複数の男性とお付き合いすることもOKですし、子どもの親が誰かわからなくても気にしません。

日本の平安時代は、財産権については娘が継承していましたが、貴族においては父から息子へ官位が受け継がれていたため、さすがに父親が誰かわからない子供はまずかったと思います。ですが庶民はミャオ族とほぼ同じで、娘が産んだ子供を、父親のことは気にせず家族で育てるのが基本だったようです。

源氏物語の中でも、男性は最初好きな女性に歌を送り、女性は歌で男性を値踏みし、その後男性が夜に女性のもとに通い、日の出前に帰宅するということを繰返すのが普通でした。そのままの通い婚を続けるパターンや、結婚後女性宅に移り住むこともありました。重要なのは女性の家族が婿となる男性の経済的な面倒を見るのが普通だったことです。ですから財力のある妻をめとるのが貴族の男性の出世の第一歩でした。

大河ドラマでは、道長は左大臣家の一の姫である倫子の婿となるわけですが、道長が婿になれたのは、倫子の母が、「将来出世しそうじゃない?」と道長を認めたからに他なりません。嫁の母の意見は、婿選びでは左大臣である父親より絶大です。そして道長は結婚後、この正妻の家でずっと面倒を見てもらうことになるわけです。

当時は、現代の日本のように、男性は結婚した女性を一生食べさせなくてはいけないなどという責任感は微塵もありませんでした。逆に女性は男性を食べさせていけなくなったら、男性と別れるしかありませんでした。ですから「後ろ盾」となる親がいなくなった貴族の娘などは、婿を取ることも、生活を維持することもできなくなります。源氏物語に出てくる末摘花は、上流貴族出身でありながら両親の死後はボロ屋敷に住み、使用人にお給料が払えず、食べるものさえないありさまでしたし、夕顔のように、売春婦さながらのことをする貴族の娘もいたのかもしれません。

話がまた脱線しましたが、紫式部や清少納言がこの時代活躍できた背景は、当時の権力者の財力と庇護と、当時の社会的背景があると思っています。当時の男性は、女性が描いた作品も、「女のくせに」と排除したりしませんでした。むしろ文学的な観点から、男女差別なく作品として公平に評価しているところが当時の男性のすごいところであったと思います。日本には平安時代以前から和歌集が編集されていますが、万葉集に至っては、作品として男も女も貴族も庶民も分け隔てなく歌が選ばれています。そんな大胆なことをしていたのは日本くらいだと思います。後世になると、さすがに庶民の歌は入っていませんが、男女関係なく、和歌として優れているものが選ばれているのは同じです。

現代でこそ男女同権意識の高まりで、女性の作品を排除しなくなりましたが、平安の昔はそれがごく当たり前だったわけです。そしてそれらが、世界に誇る文学作品となったのです。これは日本が、世界に大いに自慢して良いことの一つだと私は思っています。

ドラマをきっかけに、日本ルネサンスではないですが、当時の文学が見直され、あるいは新しい価値観が生まれるきっかけになればと思います。例えば婚姻制度や戸籍制度について、夫婦同姓が日本の伝統だという人がいますが、夫婦同姓は基本的に明治以降の制度で歴史的には浅い制度です。この当時は別姓が普通で、婚姻はもっと自由なものでした。当時の太い実家の代わりに国が制度として子供の面倒を見るということにすれば、今の若い世代ももっと恋愛や結婚に積極的になれるのではと思います。もっと多様な価値観を受け入れて楽しい世の中になることを願っています。