医薬研究を取り巻く環境変化と中国の影響

私は外交の専門家ではないため、外交問題について語ることはできないのですが、私が長年勤めている医薬業界における最近の中国を取り巻く状況の変化について少々お話したいと思います。

このブログでも何度か書いていますが、私は医薬業界でも創薬研究と呼ばれる段階と、その少し先の開発段階において仕事で主にかかわってきました。2002年から商社に勤務し、はじめはバイオベンチャーの投資に特化したファンドのマネージメント業務や投資先の評価(主に技術面からの評価)に従事しました。その後は、海外、中でも中国、インド、ロシアなどにある創薬研究の受託企業とかかわるようになりました。

2000年前半は、創薬研究を受託する企業が勃興し始めたタイミングです。創薬研究の受託研究機関はContract Research Organizationと呼ばれ、臨床試験を受託する企業であるClinical Research Organizationの略称(CRO)と同じなので、混同されますが業務内容は全く違います。一部の大手のCROでは、創薬研究から臨床試験まで一気通貫でできる企業もあり、医薬業界にいても違いがよく理解できていない人も多いです。

創薬研究のCROは中国やインドに多く存在します。理由はいくつかあるのですが、医薬研究に必要な有機合成ができる優秀なケミストが多く、そのケミストに先進国より安くアクセスできることがあります。創薬研究CROの始まりは有機合成の受託から始まったところが多いので、ケミストを多く抱える国で多く生まれることになりました。現在の創薬研究はケミストリーが主ではなくなりつつありますが、それでも有機合成はまだまだ創薬研究において重要です。

2000年代前半の中国は、ちょうど医薬産業を中国の将来の基幹産業とすべく、海外に出て行った優秀な人材(こうした人材を「海亀」という)を様々な優遇策で呼び戻しているところでした。商社時代の私がかかわっていたいくつかの中国のCROも、例外なく社長以下、マネージメントはほぼ米国籍の中国人でした。そしてマネージメントレベル以上のコミュニケーション言語はすべて英語で、元製薬企業出身の欧米人も多く働いていました。

中国の製薬企業と言えば、それまでジェネリックの製薬企業がメインでした。もっぱら他の国で承認された薬について国内で追加の臨床試験を実施し、上市するというビジネスモデルでした。日本のジェネリック製薬企業と違うのは、中国のジェネリック製薬企業は昔からグローバル展開していたため、財力があったという点です。新薬については、2000年代前半はまだ新薬の承認をする機関である中国国家薬品監督管理局(NMPA)もほとんど機能しておらず、また新薬の研究ができる研究機関も存在していませんでした。

それが創薬研究のCROという、いわば海外の製薬企業の研究の下請けをする企業が続々と誕生したことにより、急激に環境が変化しはじめます。そうしたCROは、初期のころは創薬研究のほんの一部の受託をしていましたが、7-8年後には創薬研究のほぼ丸ごとを引き受けられるようなレベルに到達しました。ちょうど2010年くらいから、世界の製薬企業が費用のかさむ研究所を次々とたたみ、研究を積極的に外注化した影響で、そうしたCROはどんどん大きくなり、今は逆に、CROなしでは医薬研究自体が難しくなっています。

バイオベンチャーに至っては、以前は社内のリソースを使って、製薬企業のプロジェクトの一部を請け負う、あるいは共同で研究開発をする、その傍ら自社のプロジェクトを細々続け、その成果である医薬品候補を製薬企業にライセンスするというのがビジネスモデルでした。ですが今は、会社設立当初からCROに研究実務のほぼすべてを委託するビジネスモデルの「バーチャルファーマ」が増えています。バーチャルファーマでは、アイディアと資金さえあれば、きわめて短い期間で誰でも薬を生み出すことができるというわけです。従業員がほぼいないわけですから、プロジェクトがうまく行って医薬品候補を導出したり、会社ごと売却したりできれば、その利益は莫大なものになります。

IT分野と違い、医薬研究開発は投資から出口までが長く、医薬分野の投資をためらうベンチャーキャピタルが昔は多かったのですが、今はCRO&バーチャルファーマモデルで、きわめて短い期間で出口にたどり着ける会社が増えてきました。そしてコロナ禍は、人々の医薬研究開発に対する期待感と、今後も安定した利益を生み出せる筆頭産業として、巨額の投資マネーが医薬研究ベンチャーに集まりました。特に米国や中国では、2020年から2022年の間、バイオベンチャーが信じられないくらいの資金調達を成功させました。

医薬研究は創薬研究CROができたおかげで、ここ20年の間に激変しました。そしてその変化に大きくかかわったのはまぎれもなく中国です。

2014年、私は当時勤めていた中国のCROがファンドに買収されたのを機に、米国企業に転職したのですが、当時勤めていた中国のCROで、中国国内のジェネリック企業からの受託研究のほとんどは抗体の研究でした。それもバイオシミラーなどではなく、それこそ最先端の新薬としての抗体研究です。抗体研究の研究者のFTEレート(研究者を年間契約する際の価格)は合成研究の3倍以上でしたが、それでもプロジェクトの需要が多く、研究者のリクルートが追い付かないほどでした。当時そのCROでは、日本の製薬企業のプロジェクトもたくさんありましたが、合成研究がメインであり、それも価格の一番安いサイトに集中しており、抗体研究を中国でやりたいという企業はありませんでした。一番高い研究内容に巨額の投資をしていたのは中国国内の企業だったわけです。

現在の中国は、こうした最先端の抗体研究が非常に盛んで、次々と新薬を生み出しています。その発端となったのは、2014年前後にジェネリック企業がどうせ新薬研究をやるならと、最先端の分野に大きく投資をしたことが大きかったと思いますし、その後そのような最先端の研究をするバイオベンチャーに、たくさんの資金が集まったことが理由でしょう。

ここまでは医薬研究について話をしてきましたが、実は医薬品の製造に関しても、中国企業は積極的にビジネスを拡大し、医薬品原料の調達や原薬の製造に関しても、ここ20年で世界の製薬企業の中国依存が進みました。それが新型コロナウイルスの感染が広がる直前の話です。

ですが現在は少し状況が変わりつつあります。コロナ禍の3年間、中国政府は突然のロックダウンなどを繰り返し、医薬品の原料調達や製造、それにかかわる物流などにも大きく影響しました。その間に各国の企業は、中国に頼らない医薬品の製造体制の確立に動き出します。これは日本も例外ではありません。

私は今インドの企業に勤めており、主要国の動きもビジネスを通して知ることができるのですが、製薬企業が研究の委託も、製造の委託も、原材料の調達も、中国以外の国からの調達に切り替えようと、取引先を変更しようとする企業の動きが、昨年の秋ぐらいから非常に活発になっています。

たまたま中国の主要港で空のコンテナが積み上がっているというニュースを見ましたが、医薬に関しては、主要国と中国の取引自体も大幅に減少していると感じます。トランプ政権下では、中国に先端技術情報が盗まれると、中国人技術者にかなりの警戒をしていましたが、米国国内でも医薬研究に限らず、最先端の研究にかかわっている研究者のかなりの割合が中国人です。医薬研究ではさらに、米国企業は中国企業にたくさんの研究を委託しています。秘密とされるデータそのものを故意に持ち出すようなことをしなくても、ノウハウが中国に流れるのは当然です。現状、中国の医薬研究開発力は先進国に追いついていると個人的に感じます。医薬以外の分野についても同じなのではないかと推測します。

最近の先進国の中国回避の動きは、物流の混乱を嫌って、あるいは単なるリスク分散のためだけなのかはわかりません。米国と中国の政治的な対立が深刻化していることを察して、企業が先回りして中国との取引を減らしているような気もします。今年、あるいは来年といった短い期間に、中国とは大きな動きがあるかもしれません。